長川寺の歴史

長川寺(ちょうせんじ)縁起

長川寺開創から鴨山城主細川家(野州家)ゆかりの禅寺へ

清瀧山長川寺は源頼政の末裔である西山宗久がこの地に「梵刹」という先祖供養のための礼拝施設を備えたのが始まりです。西山宗久がこの世を去ってから100年程後の応永14年(1407年)には長川寺背後の鴨山に浅口守護細川満国公が鴨山城を築城し初代鴨山城主に君臨します。

この鴨山城主細川氏の登場により、この地にも武家社会が求める先進的な禅宗寺院が必要とされました。これにより応永19年(1412年)に曹洞宗大本山總持寺の輪住七十三世住職を務められる英厳章傑(えいがんしょうけつ)禅師が長川寺へ迎えられます。

そして長川寺は鴨山城主細川氏ゆかりの禅寺となりました。しかし細川氏が実質的に鴨山城に君臨し直接的な統治をするのは鴨山城主七代目の細川通董公の登場を待つことになります。

 

長川寺と鴨山城主 細川家(野州家)の盛衰

長川寺は鴨山城主細川氏(野州家)ゆかりの禅寺として発展しましたが、二世密山章巌(みっさんしょうごん)和尚代の応仁年間(1467年~1468年)に発生した兵火に遭い伽藍を焼失してしまいます。

しかし文明年間(1469年~1486年)に入ると鴨山城主三代目細川教春公の助力の下に三世等厳字倫(とうがんじりん)和尚が伽藍を再建されました。この戦乱の時代の中にあって当寺院は衰退しつつもその偉容を維持しました。

それは長川寺を開かれた英厳章傑禅師以来の男女平等下での布教活動と観音菩薩や地蔵菩薩を中心とした民衆の救済活動が結実したからです。他にも当時の曹洞宗が他宗派よりも葬儀を重視し死後の菩提供養に篤かった事が背景に挙げられます。

ですが鴨山城主細川氏(野州家)は畿内の紛争に敗れて急速に求心力を失いつつありました。鴨山城主六代目細川通政(後に輝政に改名)公の時には出雲国(現島根県)の戦国大名尼子氏の圧力を受けて伊予国(現愛媛県)へ逃れてしまいます。

 

長川寺と戦国武将 細川通董(ほそかわみちただ)公の興隆

鴨山城主細川氏(野州家)は数々の紛争で備中国の支配体制を殆ど失っていました。
その領地回復に挑んだのが鴨山城主七代目細川通董公です。
細川通董公が各城を転々としながら領地回復のための拠点と位置付けたのが、自身の先祖である浅口守護細川満国公によって築かれた鴨山城でした。そして天正3年(1575年)には鴨山城へ入城し、長川寺を自身の菩提寺と定めて寺領120石を寄進し長い戦乱の中で荒廃した諸堂を整備されました。

このご縁から長川寺には細川通董公の肖像画と墓所が浅口市指定の文化財として現存しています。細川通董公は戦国大名毛利氏の客将として足利義昭等と親交を結び、この地で存在感を増しましたが、豊臣秀吉の九州征伐から帰国中の天正15年(1587年)に赤間関(現下関市)で病没されました。

そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで敗北した毛利氏は周防国と長門国の防長二ヵ国(現山口県)へ減封されます。細川通董公の子息である細川元通公も毛利氏に随ってこの地を去りました。城主不在の鴨山城は廃城となり、この地と鴨山城主細川氏との190年に及ぶ関係は終わりを迎えます。しかし長川寺と鴨山城主細川氏(野州家)の子孫は仏縁で繋がり続けました。

 

江戸期における長川寺の受難と復興

鴨山城主細川氏(野州家)が鴨山城を去るとこの地は幕府の直轄領となりました。そして長川寺は慶長10年(1605年)に備中国奉行の小堀遠州公より15石の寄進を受け、また池田輝政公からも10石の寺領を与えられ大いに興隆します。

しかし元和年間(1615年~1624年)に入ると土砂災害が発生し再び伽藍を流失してしまいました。これに輪をかけて寛文六年(1666年)には岡山藩主池田光政公が寺社整理政策に乗り出すと多くの寺社が統合され、長川寺の末寺も廃寺となりました。

これら一連の出来事により長川寺は再び荒廃してしまいます。しかし元禄年間(1688年~1704年)に入ると十二世徳雲重憲(とくうんちょうけん)和尚は荒廃した長川寺の復興を決意され、岡山藩主や長府藩の家老にまで出世していた鴨山城主細川氏(野州家)末裔である細川元教公の協力を取りつける事に成功しました。この多大な援助の下に元禄17年(1704年)、本堂が再び造営されました。それが現在の本堂です。

また十三世千岳育穏(せんがくいくおん)和尚代の享保年間(1716年~1736年)には鐘楼堂を再建し、十四世嫩昌月柱(どんしょうげっけい)和尚は僧堂や東司を元文2年(1737年)に再造営され、長川寺は往時の風格を取り戻しました。

この地が幕府直轄領から岡山藩の支配下に移ると、長川寺の歴代住職は旧正月の4日には籠に乗って岡山在住の鴨方藩主に拝謁する事が慣例になり、江戸初期の災害や時代の変革に晒されながらも長川寺は歴代住職と檀信徒各家の信頼と協力によって復興したのです。

 

近代日本の発展と長川寺

明治維新の急進的な近代化は長川寺にも大きな影響を与えました。明治元年(1868年)の神仏分離令に端を発する廃仏棄釈運動によって長川寺は大きな打撃を受けたからです。住職と檀信徒各家の協力で御本尊を初めとする本堂内の仏像は救われましたが、境内に安置されていた六地蔵を中心とする数十体の石仏はその首を切り落とされてしまいました。

現在は多くの石仏が修繕されましたが、その後は生々しく残っています。この運動により仏教界も変革を余儀なくされ、長川寺の仏教も急速に近代化の一途をたどりました。昭和16年(1941年)太平洋戦争が勃発し金属が不足し始めると政府は金属回収令を公布し、全国から金属類の回収を始めました。これに長川寺も該当し鉄舟良柱(てっしゅうりょうちゅう)和尚代の万治3年(1660年)に鋳造された大梵鐘は昭和17年(1942年)に強制譲渡させられます。

これだけに止まらず戦争末期の昭和19年(1944年)には長川寺山門前に鎮座していた推定樹齢500年の松の巨木すら戦時供出を強いられ、長川寺にとっても苦難の時代が続きました。戦後、三十世規道彰準(きどうしょうじゅん)和尚によって昭和34年(1959年)に現在の梵鐘が再鋳造され長川寺は地域と共に次第に復興していく事になります。

 

現代社会における長川寺のこれから

時代の流れは人間の価値観や生活を大きく変えてきました。しかし長川寺は数々の災害や時代変革による受難を被りつつも、700年間の長きにわたり人々の祈りの場所として今日もこの地に聳え続けています。それは歴代住職と檀信徒・地域縁者の人々の共通した祈りが強い信頼関係を結んでいた証でもあるのです。

特に今日の現代社会はあまりにもめまぐるしく情報が行き交い、我々の価値観や文化は10年後すらどのような形に変貌するのか想像すらできません。しかし人間の根本的な苦しみは仏教が開かれた2500年前から大きくは変わっていないように見受けられます。その苦しみから来る祈りに対して場所と智慧を提供し、人々を救う手助けを長川寺は行ってまいりました。長川寺が700年間守り伝えてきたその姿勢と智慧は、次の世代の人々を救う一助とする為に必ず次の世代へ渡さねばなりません。

ですがそれと同時に現代社会の中で活きた禅寺として人々に有効活用される為には伝統の中にも時代に即した変革が必要な事もまた事実です。人々の価値観が急速に変動する不安定なこの社会で時代に即した変革を行うという事は並大抵の事ではありませんが、慎重にかつ大胆に精力的な活動を行ってまいります。

 

この先行き不透明な情報社会の中で、檀信徒・地域縁者の人々にその時代・その人に合った禅寺として
700年分の人々の祈りと信頼を胸に刻んで長川寺はこれからも精進致します。